2008年06月27日

ローリー・トビー・エディソン写真展



ローリー・トビー・エディソン写真展

東京都港区立男女平等参画センター・リーブラで京都精華大学のレベッカ・ジェニスンによるローリー・トビー・エディソン写真展「からだとの対話」のスライドレクチャーがあった。

女「性」を考えるとき、例えば、メトロポリタン美術館に展示されるアーティストのうちたった5%が女性なのに、ヌードの85%は女性だという現状(Guerrila Girlsは「美術館に入るために女は裸にならないといけないのか」と強いメッセージを投げている)や、ビビアン・メイヤーの「現代のアメリカ文化ではたくさんの女性の飢餓状態(無理なダイエットによる)が、纏足や口唇伸(アフリカの一部で女性の唇を人工的に伸張させる風習)や、その他の女性の身体毀損に匹敵する」という言葉をあげ、さらに私たちが「理想」とする女性モデルがどのようにして作られていくかというプロセス(顔や髪の毛を整えたくさんの光りを当てて撮影し、写真のシミや皺やホクロを人工的に削除する作業、私たちは普通の人間じゃない偶像を「理想」として崇めているのかも)を紹介し、いかに女たちが「性」と一緒に不自然な「美」を背負わされているかを話してくれた。

そしてその「美」を今度は「健康主義(ヘルシズム)」を持って正当化し、ダイエットという国民的強迫観念がいかに市民を追いつめているかという現状を明らかにした。「からだ・私たち自身」(松香堂)の中で著者は、

「女性は他人と比較して、自分の体に不満を持つ。自分を醜く想い、息苦しくなる。美しい、といわれても信じられなかったり、または美しさが失われることを心配する。そして貴重な時間とお金を、時には健康に有害なこと―たとえば科学薬品を含む化粧品や膣用消臭剤、発現性のある染髪料、必要な栄養分を含まない低カロリー食品、体を極端にしめつける服や靴、顔の皺とりとその他の疑わしい整形手術―などにつぎ込んでまで外見を変えようと試みる。」

と警告している。さて、では太った女性というのはいったいなんだろう。社会が作り出した幻想だろうか、それとも「差別」の対象としての他者だろうか、いずれにせよ反肥満社会で痩せていないことは先進国の資本主義経済において差別の対象となってしまっていることは事実だし、「美しさ」の基準から少しでもはみ出した(ということは、例外なく女「性」を着ている誰もが)「努力」をしたり「努力」をしなくてはと思っていることになる。

私もそうだ。鏡に体を映す度、写真を撮る度、誰かとベットに入る度、遠くに友人の姿を見つける度(その人がドレスアップしているならなおさら)、新しい服を買う度、私は社会の作った「狭い」・「イメージ」の「ガードル」を着る、つまりお腹を引っ込めたり、やせて見える角度を選んだり引っ込めきらないお腹に落胆したりとかそういうことをする。痩せていない誰かに「差別」の発言や視線を送らなくとも、痩せていない自分のことを「差別」することで間接的という直接で痩せていない誰かを「差別」しているのかもしれない。ローリーの写真に写る大きい女たちは誰もがとても、美しかった。

修正された美を着せられている誰かと、ローリーの写真に写るナチュラルな誰かと、私は一体どちらを信じてきただろうということを考えると、私はいても立ってもいられなくなった、「太った母を見て育ち、絶対ああいう風にはなりたくないと思っていたのに、私も太ってしまった、絶望的な私を救ったのはマイクロダイエットだった」と言って泣きじゃくる中年女性のビデオを見ながら、私が考えていたのは彼女のことだった。今まで美しいと思っていた彼女のことを、彼女の体重のことを、最近の私はヘルシズムの影響を受けた脳で心配したりしていた。「メタボ」ブームは医学に堂々と過体重の人格を罵る資格を与えた。誰しもが見えないメジャーを持ち「健康」を武器にお腹周りを測り、あたかも痩せている人には「アナタのためを思って」という台詞を皮切りに差別発言の雨を降らせる権利があるかのように振舞う。

容赦ないその態度が与えるストレスと差別の肯定化に一体なんのメリットがあるというのだろう、あるいは、奇しくもそれは肥満恐怖症に怯えるがあまり体重をコントロールした人々のストレスのはけ口なのではないだろうか。

そう考えているうちに時間切れとなり、私は次の予定のためにレクチャーの途中で退出しなくてはならなかった。レベッカ・ジェニスンはこの後、Women En Large、Familiar Man、Women of Japanというローリー・トビー・エディソンの作品を写しながらレクチャーを続けたという、Women of Japanには私の大好きなあの高里鈴代さんがモデルになった写真もあるとのこと。彼女がJapanese Women(日本人女性)ではなくWomen of Japanという作品に登場するということ、日本の多様性や日本にいる女性の様々なポートレートを見つめることから始まる対話もまた楽しそうなので次の機会にとっておこうと思った。




写真展は6月29日(日)まで(9-21:00、ただし最終日は12:00まで)やっているので、しかも無料なので、港区に近い人は足を運んでみるといいと思います。

あと、ウェブサイトも必見です!
http://laurietobyedison.com/

http://laurietobyedison.com/index.asp


ローリー・トビー・エディソン略歴      (リーブラのパンフレットより)
1942年ニューヨーク生まれ。知的名ユダヤ人の家庭に育つ。母は服飾デザイナー、祖父母は宝石デザイナー。ビート時代に青春を送り、19歳から宝飾デザイナー、彫刻家として活躍する。30代でフェミニズムに出会い、サンフランシスコに移住。1984年から編集者兼作家であるデビー・ノトキンと共に「ファット・フェミニズム」の活動を始める。
1990年から写真を撮り始め、現代女性にとって強迫観念にもなっている「太ること」についての身体表現をまとめた「Women’ En Large」を1994年に発表。広く世界に知られることとなった。二冊目の写真集「Familiar Man」では、男性ヌード表現の新局面を開いた、として注目を集めた。最新作、「Women of Japan」は日本で生きる多様な女たちのポートレート。完成まで5年を要した。
1996年、東京都写真美術館で開催された『ジェンダー 記憶のふちから』のポスターに「Women’ En large」が取り上げられ、以来、日本においても多くの展覧会・講演会が実現している。作品は大阪国立国際美術館、京都精華大学にも所蔵されている。


  

Posted by shinakosan at 12:28Comments(0)TrackBack(0)旅は道連れ世は情け

2007年05月31日

中欧3カ国4都市ツアー2007

「shinakosan僕らの旅に同行しませんか。」
私の弟や妹位の年頃の若い学生さん達に誘われて嬉しくなった私の指は次の瞬間ライアンのチケット購入のボタンをクリックしてた。何処に行くのか何をするのかも尋ねないまま、とりあえず飛行機に乗っちゃった感じ、ポーランドに引き続き二度目の中欧、3カ国4都市の旅がスタート。



→→→ブラチスラバ(スロバキア)

 空港だけ使ってスルーする予定だったスロバキア、「せっかくだからお茶でもしましょう」と誘ったのが悪かった。ウィーン行きのコーチを逃してしまい、その埋め合わせをしようと早とちりで飛び乗ったバスはウィーンではなくブラチスラバ市内に向かうものだった、言葉もできず現地通貨も持っていない私達を強面のバスのおじさんがしょうがないなーという感じでタダ乗りさせてくれた。市内に降ろしてもらったもののバスターミナルがどこだか分からない。信号待ちのおじさんに道を聞くとどんどん人が集まってきて皆でスロバキア語とか英語とかジェスチャーとかで道案内をしてくれた。キャッシュがない私達は大荷物を抱え歩いてバスターミナルを目指した。30度を超える気温とじめじめした湿気が、からっと涼しい英国の春に甘やかされた私の肌にまとわりつき、私はほぼ一年ぶりに「暑ーい」という単語を発し幸な気分になった。大通りを歩くとすれ違う人も車もまるで宇宙人でも見るかのように視線を投げてくれる、人種の入り混じる居心地良いロンドンでは味わえないストレンジャー気分を味わうのもなかなか良いので、いちいちスマイルを返したりした。歩けど歩けどターミナルにたどり着けないのでスロバキア美人に道を聞くと「そこまで一緒に歩きましょう」と乗り場まで連れて行ってくれた。私は沖縄に来る観光客の方達にこんなに優しくしてるかしら?と振り返り今日からは『ツアリストフレンドリーshinakosan』になることに決めた。おじさん達やスロバキア美人のおかげで私のスロバキアの印象はかなり良いものになり、いつかスロバキアをじっくり廻る旅をしようと思った。空港から出るバスよりも2ユーロほど安いコーチのチケットを買い、スロバキア人の暖かさに触れ、バスからはドナウ川越しにブラチスラバ城も見れて、思いがけないナイスな回り道だった。


→→→ウィーン(オーストリア)

 音楽の都ウィーン。こういうところはもっと大人になってから来るのだと思っていたけど思いがけず足を運べることになった。世の中タイミングだ、時の流れに身を任せ『来るもの拒まず去るもの追わず』の精神でいこう。地下鉄に乗り込みホステルに向かった。手動開閉式のドアには独語と英語で「鋭く引け」と書いてあった。手首を使ってシャープにガチャンとやらないとドアは開かない、なかなかコツがつかめず一人前にドアが開けれるようになるまでに数回かかった。ユースホステルに着くと「今日は空いているから」とプライベートルームに泊まらせてもらえることになった。ラッキー。郊外にある空気の綺麗な『糸満青年の家』みたいなホステルに荷物を下ろし、街に戻りぶらぶらしてモザイクの屋根が可愛らしいシュテファン教会やオペラ座を見た後、この夜最大のイベントに参加する為、マリアテレジアの愛した黄色のバロック様式のシェーンブルン宮殿の庭園へ。なんでもあのウィーンフィルが年に一度無料の野外コンサートを行っているらしくまさにこの日がそうだった。去年は8万人が参加したというビックイベント(今年は何人いたのかな?)。素人の私でも分るような一般向けの『くるみ割り人形』『白鳥の湖』『春の祭典』という演目が嬉しい。星空の下、地べたに体育座りしパンを齧りながらクラシック音楽とバレエを楽しむ、なんて贅沢な夜だ。ちなみにオーストリアの大統領もクリントン元米大統領も来ていた。翌日は朝一でベルヴェール宮殿に行きクリムトの『接吻』を鑑賞した後ブダペスト行きの列車に駆け込み乗車した。冷房の入っていない車両で、車内販売の冷え冷えのビールで喉を潤しスーパーで買ったパンやハムやチーズやピクルスを食べながら「チャララランララーラランラーラ♪」と『世界の車窓から』のテーマ曲を歌いトランプもしちゃったりなんかして青春の清らかさで電車の旅を満喫した。


→→→ブダペスト(ハンガリー)
 
 ブダペストの東駅に着いてすぐ、なんか妙にピンと来てこの街のことが好きになる予感に襲われた。一歩一歩を踏みしめる度予感が確信に変わり百歩目くらいからはスキップしてもいいくらいに胸が高鳴り同時に何故か懐かしい気がしてる私がいて面白かった。目抜き通りに面したホステルに荷物を置いて散歩に出た。西駅にある世界一高級なマクドナルドを覗いた後(マックのくせにシャンデリアがあった)、ドナウ川を挟んだブダとペストでいうとペスト側の土手を歩いてくさり橋まで出た。ネオゴシックの国会議事堂の美しいこと!これを見て「大きくなったらこの建物の中で働きたい」という動機で国会議員を志す子どもが沢山もいいと思うくらい素晴らしかった。議事堂前には真ん中のくり抜かれた国旗(社会主義との決別を表すそう)が立っていて、対岸には王宮や漁夫の砦が堂々そびえている。地下鉄で市民公園まで向かおうと階段を下りると、もう何と言って良いか分かんないくらいキュートな地下鉄のホームと車両が出迎えてくれた。ロンドンに続いて世界に二番目に古い地下鉄は世界遺産に登録されているそうで、遊園地みたいなレトロで可愛いサブウェイに乗り込み市民公園へ。温泉に入ろうと思ったけれどお腹が空いて仕方がなかったのでカフェを探しに南西に向かった。どうして探してない時には沢山あって探し出すと見つけられないのだろう、値段・味・雰囲気・メニュー、全てに合格する場所を探すのにかなり手間取った後、地元の人でごった返すスープ屋さんを発見。メニューは読めないし後ろは詰まってるしで焦ったけれど指差しで緑色したスープを頼むとフェンネル(ウイキョウ)のポタージュだった。琉球語では『いーちょーばー』。じゅーしー(沖縄風炊き込みご飯)や沖縄てんぷらに入れるいーちょーばーをポタージュスープに混ぜて食べるというのはとても面白いアイディアでだ。満腹になってホステルに戻りお昼寝した後、大好きなトカイワインを飲むべく街に繰り出した。世界三大貴腐ワインの一つですごく香りが高く、濃厚であまーいトカイワインをレストランのテラス席でピアノの生演奏を聞きながら心行くまで楽しんで一人1000円ちょい、ブダペストさんありがとう。

 
 太陽の光で目を覚ましたのにまだ朝の6時、日本の夏だと11時くらいの明るさだ。ベランダで朝食を済ませてオーブダへ。汗をかきながら『世界不思議発見』が絶対クイズを出す前のショットに選ぶようなミステリアスで古めかしい坂を上ると突然目の前が開けてマーチャーシュ教会が現れた。こちらもモザイクの屋根が可愛らしい。そして、右手にはブダペストの絶景!美しすぎて力が抜けた。きらきら輝く川面と『ドナウの真珠』と呼ばれ世界遺産に登録されている街並みを一望できる砦の一角のカフェでハンガリー産の薬草のスピリッツをちびちびやりながら(一応午前中)しばしブダペストの街を眺め、その後王宮サイドに出てそこいらを散歩してペストに戻り、私のこの旅の最大の目的地セーチェニ温泉へ。セーチェニ温泉は湯船につかることの少ないロンドン暮らしでぱさついた私の体と吉田集而の『風呂とエクスタシー―入浴の文化人類学』を読んで以来世界のお風呂に興味津々の私の知的好奇心を満たしてくれた。アジア人がいないのでここでも珍しそうにジロジロ見られ、「ハハハ、どうだ見てみろ私がエイジアンだ」と大腕を振って歩きたいところだったけど一年間ほったらかしで締りのない腹筋なのでタオルで隠しながらコソコソ歩いて余計に目立ったりした。室内には様々な温度の温泉とサウナがあり、日本の温泉みたいに必ずしも熱くなのと天井が高いのとで湯気がこもらず快適だった。装飾された天井を眺めながら入る温めの薬草温泉がたまらない。野外では太陽の光を存分に浴び肌を日に焼きながら暖かい温水に浸かるという初めての感覚が最高だった。数時間遊んだ後は着替えて急ぎ足でオペラ座へ、400円でチケットが買えたのでロンドンでも見た『スペードの女王』を鑑賞することに。チャイコフスキーだから歌はロシア語で字幕はハンガリー語。場面展開に付いていくのが難しかったけれど、なんとか4時間半の超大作を見切った。ヒーローヒロインの顔は好みじゃなかったけど声とオペラ座内の装飾が私好みだったので幸せだった。ホステルに昼間買って冷やしておいたトカイワインとシャンパンを取りに戻り、オーブダが一望できる川沿いにピクニック(ピクニックって夜にも使える?もーあしびーの方がいい?)に出かけた。『ドナウの薔薇』とも形容される王宮サイドの夜景はこれまで見たどの夜景よりも繊細で綺麗だった。一人800円でこんなに贅沢なピクニックができるなんてハッピーハッピーだ。


→→→ザルツブルク(オーストリア)
 
 早起きしてバスに乗り込み一旦ウィーンに帰って電車までの時間ホテルザッハーでザッハトルテを食べ(あぁ思い出すだけで涎が)、『世界の車窓からパート2』をした。今度の車両はとりあえず窓を開けることができたので涼しい風を受け段々見えてくるアルプスの山々に喚起の声を上げながら約3時間でサウンドオブミュージックの、モーツアルトの、そして三都主と恒様のザルツブルクに到着。涼しく空気の綺麗な駅に着くとオリンピック2014キャンディデイトの垂れ幕があった。私の手違いでザルツブルクではホステルを押さえられなかったのでホテルに泊まることになっていて、バスを乗り継ぎ3つ星のホテルにつくとラブリーなロッジに通された。マウンテンビューの素敵なお部屋の、二段ベッドじゃないベッドと広いバスルームのバスタブとキュートな花柄の壁紙に一同大興奮。市街地に繰り出す頃、何故だか話が噛み合わないことに気づいて旅仲間に質問してみると、これまた何故だか分からないけど私だけ翌日朝一のフライトで帰るチケットを買っていた事が発覚(笑)。一日しかないので「終電まで歩きまくわよ」と張り切って、まずはやっぱりホーエンザルツブルク城を目指すことに。ケーブルカーを使わず民家の脇を通りどんどん斜面を登って行った。高台からはオキナワンの私が滅多に目にすることのない雪をかぶった壮大な山々とこれまた世界遺産の美しい街並み。コンサートに繰り出す地元の人たちが民族衣装に身を包んでるのも乙だったし、ザルツブルクのビールも乙だったし、難攻不落の城壁の中のキュートで田舎っぽい生活感も乙だった。ウィーンの様なポッシュ感はないけど、上品で清楚で優雅で『余裕』を感じさせる落ち着いた街並みを私は随分気に入り、今度はザルツブルク大学(宮殿みたいな建物だった)に留学しようかなと思った。今度は川の向こう側に行きサウンドオブミュージックでマリアのいた修道院やモーツアルトの生家などを見て回わり『ドレミの歌』で有名なミラベル庭園ではちびっ子をナンパして一緒に感動のラストシーンを再現。暗くなってきたのでカフェのテラスに座りビールを飲んだ後スパークリングワインで最後の夜を楽しんだ。夜風が優しく髪を撫でるのでことさら名残惜しい気分になった。ホテルに帰りゆったりバスタブに浸かり旅の疲れを癒しザルツブルクの一日に幕を下ろした。


→→→ロンドン(イギリス)
 
 朝食前に少し散歩をしようと思い立ち一人部屋を出た。小川を辿って歩いていくと住宅地に入った、朝っぱらから知らないエイジアンが家の前をうろついてたら驚くだろうなぁと思ったので『だらだら歩きの不審者』から『爽やかな朝のジョガー』にイメチェンした。同じスペース同じ屋根の高さなのに一つ一つの家の造りが相当違っていて楽しい。もう少し行くと本当のジョギングコースがあったのでスピードアップし山を見ながら随分遠くまで走った。朝食の時間になったので急いで戻るとレストランでは朝練を終えてサッカーの試合に向かうというドイツの中学生集団と一緒になった。ドイツ語が出来ないので挨拶だけして黙々ご飯を食べようと思ったら「何で走ってた?そんなにお腹が空いてるのか?」「コーヒーに砂糖が欲しいか?」「スシと友達か(多分高原のこと)?」「彼氏いる?」「俺とアイツとどっちの髪がいけてる?」と質問攻めにあい、ほとんど言葉が通じてないのに大爆笑しながらブレックファーストを食べた。母校の剣道部を引率して全国大会に行ったりしてた頃を思い出しついついはしゃいでしまった。部屋に戻り、私をこんなにも素晴らしい旅に連れ出してくれた素敵な素敵な仲間達に別れを告げ、一時間遅れのライアンエアに乗りロンドンへ帰ってきた。英語の文字にホッとし、ブリティッシュアクセントの入国審査官と冗談を交わし、荷物受け取り所で大学の友人にバッタリ会い、市内までのコーチに知り合いが乗ってきたりしてなんだかすっかりロンドンが私のホームになってることを実感。曇り空で肌寒いイギリスに戻っただけでこんなに「ただいま」という気分になるのだから7月に日本に、そして沖縄に帰ったらどうなるんだろう?


 
 それにしても良い旅だった。やっぱり私は旅が好きだ、若いうちは『百聞は一見にしかず』をテーマに旅をしようと思っている。高級なものを味わう土台はまだないのでバックパッカーに毛が生えたくらいの格安ツアーでいい。航空券だけ握り締め足が棒になるくらいまで歩いて歩いて歩きまくろう。世界には色んな人がいて、色んな言葉で話し、色んなお酒を飲み、色んなのを食べ、色んな事を考えてる、だけどやっぱ所詮みーんなただの人間なんだというのを感じたい。一度でも足を運んだ国のニュースはもう『外国のニュースだって、ふーん』ではなく『行ったことある国のニュースだ!詳しく見てみよう』になる、同様に外国人の友達を作ると『外国のニュースだって、ふーん』ではなく『友達の国のニュースだ!詳しく見てみよう』になる、そうやって世界と繋がっていくことが私にとっては大事なことだったりする。グローバリゼーションは嫌いだけど、グローバルにものを見れる人間にはなりたいと思う。そんでもって大きくなったらグローバルに思考できるようになった脳で自分の生まれ落ちた小さな島のことを分析したり少しでも貢献できるように知恵を絞ったり出来る様な人になりたい。大きくなったらね、今はまだ修行中。

私の旅はまだまだ続く☆


  

Posted by shinakosan at 07:24Comments(2)TrackBack(0)旅は道連れ世は情け

2007年04月10日

アイルランドとヒトと私と


 アフリカに『ルーシー』と名付けられたアウストラロピテクスが生まれたのが400万年前だとして、沖縄の港川原人が18000年前でしょ?それでもって私が26年前に生まれたわけです。「だから何?」と先週の私はスルーしていたと思う。でも今週の私は『なぜなぜガール』だった。疑問に繰り上がる一つ前のレベルであろう「それって不思議、どうして?」という感覚が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

よつば     よつば     よつば     よつば

 イースターのグットフライデー。いそいそしたヒースロー空港を飛び立ち、私はタラの丘にちょこんと座していた。アイルランドの首都ダブリンから北に一時間ほど行ったところにあるケルト人の聖地Hill of Tara、その日は曇りだったので『天使の梯子』と称すまではいかなかったけど、恐ろしく綺麗な光芒が私をますます無口にさせた。不安は私を無口にさせる。むっつり押し黙り心中で「ナゼ?」を唱える。数々の疑問は、例えばヘンゼルの落とした小石の道しるべ、私は後に一つ一つ丁寧に拾い上げげ家路を探すように将来の自分を探すだろう。同心円状に隆起した土地に沿ってぐるぐる歩き回ると、胃の内側を指の腹でリズミカルにトントンと叩かれている感覚に襲われ苦しくなった。「王にふさわしいヒトが触ると雄たけびを上げる」と言われているらしいファルスをモチーフとした立石に触れても、声帯の振動を伴う呼気を発したりはしなかったけど、胃が痛くなって右手が痺れた。

 世の中には分からないことが山ほどある。ヒトは考える葦ではあるかもしれないけど、同時に思考することに意義があるとは思えないことがこの世に多すぎてむなしくなる。前日ダブリンで見たケルズの書や映画に出てきそうな趣のある図書館や国立博物館に「美しい、素晴らしい、当時のヒトってすごーい☆」とツーリストとして最も適切な台詞を口にした私、同じものを見て「これらの知が世界に与えた影響は何か?当時のヒトは何処に進みたかったのか、私達は何処に来てしまったのか」とうなだれる人もいる。この世はコロニアル時代からグローバル時代へとシフトした。沖縄は唐の世も大和やアメリカの世も経験し、貿易で栄えネイバーアイランズを支配し、言語や文化を他者から奪われ自らも抑圧し、人口の大部分を戦争で失い、日米の基地を受け入れ、自然体系を破壊し海を汚し、仲井真を当選させた。野国総官とか伊波普猷とかが頑張った結果が今に伝わってるか全然分かんない。県民は芋から米へと主食をシフトし長寿返上でマクドナルドを食べ『やまとぐち』を話すヒトを「洗練されている」と評価し暮らしている。勿論あの時あの時点で彼らは素敵だったけど、2007年現在沖縄で起こってることと彼らの描いた社会の未来図がイコールだとは到底思えない。

 スタウトの美味しいアイルランドはケルトの国、ゲール語は第一公用語。TVを付けるとゲール語の子供番組があったり、道路標示や看板なんかがゲール語(これが上)・英語のバイリンガル表記だったりした。19世紀頃の民族運動の際に言語保存や復興などが着工され、今では義務教育においてゲール語のクラスが必須で公務員試験にもゲール語を課すといった政策が取られているのだけれど、実際のところゲール語話者は減少する一方。英語帝国主義に飲まれずマイノリティの言葉を守るにはトップダウンで提供される環境や制度だけでは不十分なのだ。スコットランドやマン島のゲール語も最近復興の動きが出てきているので是非リンクして頑張って欲しいと思った。それからオガムストーンも拝見できたのだけど、石に刻まれた文字も非常に興味深かった。大英博物館でロゼッタストーンを観た時の様なテンションで石柱を凝視しては嬉しくなって「何故?」を楽しむ。何故ヒトは文字を必要としたのだろう?何故ヒトは石に文字を刻んだか?何故言語には多様性があるのだろう?何故多様性があったほうが良いのだろう?

 世界遺産Newgrangeの白い墓の入り口は中城城跡の城壁の様でちょっとファニーだった。「それにしても発掘作業から復興作業まで手がけたヒトはラッキーだな、楽しかっただろうな」、私はこういうことにロマンを感じる。学部時代『琉球の美術工芸』とうクラスで首里城再建に関わった学者が嬉しそうに薀蓄を語る姿を思い出し、先程まで先ヒト達の努力は無駄だったのかもと嘆いていたのだけれど、この時点では浪漫に打ち込むヒトを羨ましく思った。ニューグレンジは神秘の発掘物、ピラミッドより前に作られてた古墳の様なもので、一年のうち冬至になると太陽の幻想的な光の筋が室内を照らし出す設計になっている。斎場御嶽とかストーンへイジとか世の中には本当に今の価値観で見ると動機や製造工程の不明な沢山の不思議が転がっている。遺跡に残る渦巻きやひし形の模様はハワイやアボリジニを髣髴とさせるもので、ヒトの普遍的な美意識や未解読のメッセージ見たいなものを感じた気がした。違うようで似ているヒト、でも時代と共に変わっていくヒト、ヒトヒトヒト。

 旅の途中で石原再選のニュースが入り絶望的な気分になった。「ヒトがヒトとしてハッピーに生きる」というシンプルな欲求を通すだけでいいのに、何故か自らの首を絞めるかの様に車を沢山造り走らせ温暖化促進を頑張り、海外から来た農薬漬けやGMOの野菜を齧っては大量の残飯を出し、選挙権を駆使して血税を訳の分からない『東京オリンピック』につぎ込み、いじめやらで大変な教育は『日の丸君が代』の徹底でなんとかなると勘違いしている役人を選出し、さらなる格差と右化を呼び寄せる東京人。男尊女卑発言がアレだけ多い石原が女性に支持されている所以も私には分からない。国家主義的倫理を賛美し女性を侮辱しながら「自らの愛するもののために、場合によっては生命を賭した闘うべき義務責任」とか発しちゃう相当危ないおじーちゃん(73)に票を投じた人たちが沖縄県民総数の二倍以上いると思うと吐き気がした。それでも仲井真当選時よりは冷静に結果を受け入れている自分がいてますます気分が悪くなった。

 ヒトがせっかくポッシュにヒトの歴史や文化や言語や『持続可能な発展』に焦点を絞って思考していたのにすぐまた下らない現実の世界に引き戻されため息をつく羽目になった。私のまわりに在るもの全てが私のリアルであり私を興奮させたり萎えさせたりする。アフリカ生まれの『ルーシー』ちゃんと沖縄生まれの私、一体何が同じで何が違うのだろう?宇宙を感じ、古代人の遺跡に触れ、物凄く興味深い話を沢山聞き、コーヒーを啜り、太陽を浴び、運転して、本を読み、キャンディーを舐め、ベッドに転がり、PCに向かう。アレも私、コレも私。私がこのタイミングでこの世に生を受けオキナワンとして学生していることってなんだろう?10年前に、もしくは100年前に生まれていたらどんな私だったのか?例えば群馬県に生まれていたらどんな私だったのか?自らの感情さえコントロールできないくせにどうして世のあり方を考えたくなるのか?私はこれからどうなっちゃうんだろう?深く考えても分からないに決まっているクエスチョンズが、0.01秒程のスピードで私の体を駆け抜けていく感触はそれはそれで心地良かった。

 26年しか生きていないことを憾みたくなるような、それでいて今のこのレベルで40歳だったらもっと嫌だなぁとか思ったり、今と過去と未来の私を感じることの出来る面白い旅だった。
 準備無しの無計画な旅は私に数々のアイディアとリラックスとモチベーションを与えてくれたように思う、Go raigh maith agat!Oiche mhaith!
  

Posted by shinakosan at 21:37Comments(0)TrackBack(0)旅は道連れ世は情け